・れ 「連名で記された分子、山内一豊、苦渋の決断」関ヶ原合戦で西軍に付いた長宗我部盛親は土佐を追われ、京へ移り住む事となった。
盛親が土佐に籠り抵抗することはなくなるも、土着の長宗我部家臣がそのまま残っていたのだ。そこへ、よそ者である山内家が、新国主として土佐へ入ったのである。これには旧臣たち、納得がいかない。
とくに半農半士で戦以外は百姓の、一領具足と呼ばれる人たちである。長宗我部家重臣は他国に仕官したりと、武士として生きる道があったのだろう。
盛親が書状で、城を山内家に開け渡すよう説得しても言う事をきかず、武力による解決がなされた。273人が討ち取られやっと開城となった。(浦戸一揆)
残りの一揆に関わった反抗的分子は、桂浜で相撲大会を開催するとして呼び出しに成功。その中でリストにある73人を捕縛、種崎の浜辺(桂浜の対岸)で処刑。リストアップされているも相撲大会に出なかった者は兵を派遣しその場で処刑と、徹底したものだった。
領民に対し温和だった一方、山内一豊の厳しい部分を垣間見れる。
一領具足の残党による暗殺を警戒していた一豊は、外に出る際、常に同じ格好をした影武者を複数人従えていたとの事。