そもそも現実とは、何をさしているのだろう。
デカルトの言う、『我思う、ゆえに我あり』と、頭で現実とは何だと苦悩できる現実が、そこに現実が存在する証拠なのだろうか。
最近日光に行った。車が山中に差し掛かりどんどん進むと霧が濃くなってきた。
雲の中を走っているような、なんとなくこの世の道路を走っているのとは違うような感覚になった。
そんな時に、もしかしてオレはもう死んでいるのかもと考えたら、ちょっと恐くなった。
数分前にオレは事故に遭って死んだのだが、オレはそれに気付いていない。
突然霧深くなったのは死んであの世に向かっているのであって、この道の先に三途の川があったら・・・と、一人妄想して恐くそして寂しくなった。
事故には遭っていなく、無事に生きてる現実があるから、こうして文章を書けているのだが。
生きている現実と死んでいる現実を混同して体現する事は、あるのだろうか。
死後の世界が、今までと劇的に違う風景や環境だったら気付くか。
生きている状態が現実であると仮定したときに、死んで現実が無くなった時、何を考えるのか。
現実が無ければ何かを考える事もないのか。現実が無ければ考えを巡らす対象もなくなるのか。
考えを巡らす対象がない、それが「無」という現実か。
目に見える物質主義が現実を現実たらしめるのであれば、そういう事を考える脳味噌が死んで消滅した時、人は終わり?
死後の世界にも現実を見い出せなければ、とてもとても死ぬ事が恐い。
人間が最も想像できない世界とは、「無」だという。
音も光もないのが無ではない。音も光もない事を感じている現実があれば、それは無ではないのだ。
そうか、死後の世界にも現実を見い出すから、自殺者があとを絶たないのか。
現実を見い出せないから抱く死への恐怖と、死後に現実を見い出すから選択する自殺。
現実に対する考え方の矛盾を、どこに問えば?