前世・あの世・現世・来世について多大な興味をもっている。
この世は魂が修行をする場所であると言われているが、本当だろうか。
あの世からこの世に生まれるときに魂は、自分に課す修行に即した肉体を選んで生まれてくるのだという。
となると、生まれつき障害をもって生まれた人はすごい人という事になる。過酷な修行を選んだ事になるから。
もしそれが本当なら、この世に生を受けたひとりの人間としてオレの修行は過酷だろうかと考えてしまう。昇り調子ではない時の苦悩はあるが、そこまで過酷かと言えばそうでもない。
とすると死んでからのあの世で、自分は有意義な魂としては存在し得ないという事になる。修行の場であるこの世で、大した修行もしていないのだから。
そう考える人間はそれを分かっているから、この世で自ら苦行を己に課すのだろうか。
死ななきゃ分からないのか結局・・・
死に際に後悔しない人生は、オレも全うしようと常に考えて生きている。
でも世の中を見ると、創造主たる神がいると仮定して人間全て、いや、人間を含む万物全てが平等に創造されているのかという疑問が湧いてしまって、それが目に見える身近な形だと身障者であって、その人たちはそれじゃあ、死に際の後悔しない人生の前に生まれた事には後悔していないのかとも考えたりする。
健常者は何をするに支障のない健康体を駆使して、後悔のない人生を全うしようとすれば、努力次第でそれは限りなく可能だと思う。
でも身障者としてのスタートである人生だったら、不可能な部分も沢山あるから、その限られた範囲内での後悔しない人生しか全うできないのではと思うのだ。
基本的人権の尊重が約束するであろう人生全うを誰しもが願うけど、健常者のそれとは違うのではないか、それこそ身障者が思う差異ではないのか・・・。
今の人生を満足に生きる使命&任務を考えられるのは、健康体である余裕がオレにはあるからだと思う。