
本日2月22日は「ニャンニャンニャン」で「猫の日」だとか。
オレも実家で猫を飼っていたのだが、6年前に老衰した。
高校3年から飼っていて、当時黒夢が大好きだったから名前はキヨハルだった。といってもオレが命名したわけではなく、当時バンドを組んでいたドラムのミオコから、最近生まれた、という子猫を譲り受けた時に、
「はい、これキヨハル!うちはこの子の妹、ヒトキを飼うから」
と言われたのだ。
ちなみにキヨハルの兄弟は全部で5匹生まれたのだが、他3匹は生まれてすぐ処分された模様。川へ流したのだとか。

我が故郷、三戸郡南部町には馬淵川(まべちがわ)が流れているのだが、そこへ放流したようだ。
これじゃあ馬淵川じゃなくマビキ川だ!とミオコに突っ込むも反論され、オレはそれになにも答えられなかった。詳細はこちら↓
そんな“選ばれし”生後数ヶ月のキヨハルを、ミオコがニッコニコしながら小さなバスケットに入れ、うちに連れて来た日の事を思い出す。いま思うとそのニッコニコの裏で壮絶な仕分けがあったのかと、複雑な気持ちにもなるが。
当時オレは猫をどうしても飼いたかったが、両親はペットを全面的に反対。しかし食い下がるオレに業を煮やした親は、『自分の部屋から出さない事』を条件に渋々OKを出したのだった。
猫のトイレや猫砂や餌等を揃えて、キヨハルとオレとの共同生活が始まった。
手のひらサイズのキヨハルは布団の中に潜り込むと潰しそうで、注意しながら寝た。餌を食べる時に鳴きながら急いで食べるものだから、「あんあんあん」とお喋りしているみたいでかわいかった。
トイレはミオコが既に躾けてあったが、ウンコ臭がオレの部屋に充満するのはきつかった。
猫砂の上でかりんとうのようになったそれを専用スコップですくい、二階の窓から隣の畑に放り投げるのがオレの日課で、なかなかコツがいった。
小さな窓から部屋にウンコはもちろん、砂の一粒もこぼさない様に飛ばすには、手首の華麗なスナップを必要とした。
よくウチでバンド練習をしていた浪岡などは、上手いねえと笑いながら感心をしていた。
一番困ったのは、Hな本を読む時である。猫の前でのその行為には気を付けなくてはいけない。
猫は動くものに敏感に反応するという事だ。ましてや激しい反復の動きには、たまらず近づき猫ぱんちを繰り出そうとする。
普段は見せないオレの動きに興味を示し近づいてきて、急いで果てたそのティッシュをゴミ箱へ放ると、キヨハルはたまらず反転し、それを追いかけたりもするのだった。
やはり情というのは移るものであり、半年もすると両親とも和解したキヨハルは、晴れて家族の一員となった。毎日、暖かい居間で過ごせる事となったのだ。
それからすぐにオレは上京。両親にキヨハルを託す(押し付ける)かたちとなった。
実質オレがキヨハルを飼っていたという感覚は、部屋から出してはいけなかった濃密な半年位で、あとは死ぬまで両親が飼っていたようなものだ。今考えると本当に勝手だった。
父親は帰省する度に、朝霞へ連れて行け、動物病院では数万掛かった、キヨのお陰で長期旅行が出来ない、などと、毎回突っ込んできたのだが・・・
キヨハルはただ、居間での家族との共同生活が許されただけであり、この家にあってキヨハルの存在は父親にとって未だどうでもいい存在であり、オレが勝手に連れて来た厄介者で、父親が酔って帰れば唯一相手はしてくれるだろうが、それだけじゃ家族の一員とは認めないぞこのバカ猫めと、オレは父親が常にそう思っていると、帰省する度に思っていた。しかしそれは違った。
ある時キヨハルが転院先の病院で瀕死の状態になった時に、獣医を見る目がなかった、もっと早く違う病院に連れて行けばよかったと、父親はとても自分を責め、キヨハルへの思いを手紙にしたため、そして横たわる彼の体をずっとさすり続けていたと、いつかの帰省の時に母親から聞いたのだ。それを聞いたオレの胸は、とても締め付けられた。
オレが帰省の度に突っ込まれる父親からのそれは、キヨハルを無責任に放棄し実家に押し付けた、オレに対する突っ込みだったのだ。
キヨハルとの思い出は数限りない。特に何をしたというわけではないのだが、猫はそこに居るだけの存在なのに、他人の人生に深くその存在感を食い込ませてくる。
いま、八戸市内の某ペット霊園に眠るキヨハル。“新盆”以来、一度もそういえば出向いていないな。種差海岸近くだからついでにいつでも寄れるのに、思い出す事もそういえばなかったかもしれない。
ずっと家族のアイドルだったキヨハルだったが、その座は数年後に生まれた姪に取って代わってしまった。オレもキヨハルよりも姪の方をかわいがるようになった。姪が帰ってからようやくキヨハルをいじるという、そんなキヨハルの晩年だった。
今考えると、姪と同様、平等にかわいがればよかった。
いや、それこそがありがちな人間目線で、逆にキヨハルにとっては迷惑な事だったかな。姪の方にその“かわいがり”が向いて、むしろキヨハルは平穏でのんびり寝ていられて良かったのかもしれない。猫の気持ちは人間になど計り知れないが、きっとそうだ。
なんでもかんでも人間と一緒というのには違和感がある。一方、ペットへの個人的思いを抱くのは、現代に生きるオレにも湧き上がる当然の感情だとも思う。
ひざには猫、皿には牛の現代社会に色々矛盾は感じるが、全てを結論付けで割り切るのは難しいのが現代社会だとも思う。キヨハルを飼い始めた高3当時のオレは、そんな事には考えも及ばず、ただ一時の感情、ただかわいいからという気持ちで生き物を飼ったのだ。
だからと言って今は考え方が違うから、牛と平等にキヨハルも食おう、ってわけにはいかない。
二度と動物は飼わないだろう。
2月22日にニャンニャンの語呂合わせって面白いなと感じつつ、人間対ペットに関して考える日にもなって、今日は良かった。

平成22年1月2日19時 実家の宴会場にてキヨハルとの最期の会談
飼い猫キヨハル集
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