忘れもしない年の瀬94年12月28日21時19分、バキバキバキ!!と大音量スピーカーの中に居るようだった。身震いしながら叫ぶ家。そして停電。
三陸はるか沖地震の発生だった。




防災歳時記12月28日 三陸はるか沖地震から考える「災害への記憶」
実家の子供部屋で浪岡&原燃へ行ったコイタカと三人でファミコン(確かファイプロ)をやっていた。
オレの記憶では、地震が来る数秒前に、なぜかTVが消えたのだ。おかしいなあと思った直後に揺れた。これは何か関係あるのかなと今も疑問に思っている。
うちの被害は壁紙に少しキレツが入ったのと、台所の皿が数枚割れた程度だと思う。今だったら逐一写メで記録していたのだが。暗闇の中、隣部屋の妹の安否を確認した。無事のようだった。
さっそく家の外へ浪岡&コイタカとオレの三人、懐中電灯を片手に散歩へ繰り出した。闇に包まれる団地内(元々田舎で暗いのだが停電でさらに)
電線が切れて雪の上に垂れ下がっていた。スナックのママが、もう酒瓶割れまくりだから見てってよ、と言っていた。酒屋の店主(故人)が店内を掃いていた。刺激に飢えていたので興奮した。
オレたちはこの後もファミコンを続行したのか、それとも早々に解散したかは記憶にない。うちの両親の行動も記憶にない。八戸市内はもっと酷かったが、うちは内陸の三戸郡なのでこの程度だった。
年が明けて八戸西高に登校すると、上履き棚がぶっ倒れて靴が散乱していた。靴の海だった。その中から自分に合うサイズを見付けて失敬せざるを得なかった。そのまま卒業まで他人の靴を履き続けた。
以上がオレの記憶する三陸はるか沖地震の全てである。
そしてその20日後に阪神淡路大震災が発生。被害の規模は桁違いで、すぐに八戸の事なんかそっちのけになった。
その前年に修学旅行に京都方面へ行ったが、一日だけ班での自由行動があり、行く場所が大阪か神戸か選択できたのだが、うちらの班は大阪になった。とくに理由もなく。神戸にしておけばよかったとその時に思った。
神戸にしておけば大阪の街で土産袋に空き缶を入れられる事もなく、関西嫌いにはならなかったかもしれない。
そんな阪神淡路大震災から本日で20年とか。忘れ去られた八戸の震災もつい先月20年目だったのだ。デーリー東北では節目に少し触れていたが。
三陸はるか沖地震から20年 2014/12/28 09:00
しかし疑問だ。断層の連動も関係のない八戸と神戸という離れた場所で、近い期間で同レベルのマグニチュード7クラスの地震って、自然に起こりえるのだろうか。八戸は太平洋のプレート型で神戸は直下型だろう?偶然にしてもたった20日をおいてって、そんなのあるのか。
そしてはるか沖地震はなかったかのように、阪神大震災の後はほとんど報じられなくなった。20年の節目を、こちらはひっそりと向かえたのだ。
八戸と神戸という戸つながりの地名もなんか偶然ではない気もしてくる。
キリストの墓のある新郷村は以前戸来村(へらいむら)と言われていて、ヘブライから来ているといわれている。
ナニャドラヤ音頭:ぶらり古代倭国への旅・・・ヤマトのルーツを求めて
やっぱりユダヤ?
<阪神大震災20年>午前5時46分、祈り希望の炎に
毎日新聞 1月17日(土)12時14分配信
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