
この動画、前半の歴史は面白くてためになる。現代に続く確執具合、TV側の演出も加味だが大方合っている。
南部と津軽の確執は、未だ根深いと思うね。






津軽の二大裏切り
① もともと津軽の地は南部家の領地だったが、南部家の家臣、大浦為信が謀反を起こし、土地を奪って独立した。(その後、大浦為信は津軽為信と名前を変えている)
すぐに為信は豊臣秀吉と通じ、先手を打ってその領土を安堵してもらうことに成功。
南部家から見れば謀反人の津軽為信だが、これを討つことは豊臣秀吉に弓を引くことと見なされ、結局、南部家は為信による津軽支配を認めざるを得なかった。



時の実力者、秀吉の虎の威を借り領土を拡大、一国の大名に。

② 戊辰戦争では津軽藩も南部藩も互いに幕府側であった(奥羽越列藩同盟)が、早々に津軽藩は新政府軍に寝返っている。
そして寝返った津軽藩は、すぐに南部藩に攻め込んだ。しかもそれは南部藩が新政府軍に降伏し、受理された後だった。いわゆる
野辺地戦争



戊辰戦争においては周知のように新政府軍が勝利。津軽藩は官軍、南部藩は賊軍となる。
元々南部藩の殿様が居た盛岡が岩手の県庁所在地になった、いわゆる県名と県庁所在地の名称が一致しない処置であるが、それは賊軍だった県を後世に知らしめるためである(諸説あり)。
そして一番の疑問が、なぜ敵国同士を同じ県にしたのかと言う事である。これは経済事情のようだ。
当時下北の辺り(南部藩)は破綻寸前、八戸の辺りも米がとれない土地柄で貧乏、しかし津軽地方は米がよくとれて裕福だった。
下北・八戸・盛岡等の南部系列藩が一つの県になり、下北地方を救済する事は不可能だった。よって強引に津軽とくっつけたようだ。
歴史的な愛憎はあれど、当時の廃藩置県はそんなものに構ってはいられない一大行政改革だった。シビアに地域流通や各々の県単位で経済調整を考え、統廃合した模様。こちらに詳しく載っている。⇒
青森県の津軽と南部は、なぜ仲が悪いのですか?なんという事だ。南部人は津軽に足を向けて寝れないという事か!?要再調査である。
県外の人がイメージする青森とは、津軽である。りんごもねぶたも大雪も津軽だ。南部は、煎餅汁と大間のまぐろと三社大祭なのだ。文化が全く違う。言葉が違うのがいい例である。




「~だから」を例にすると、津軽「だはんで」、南部「だすけ」、下北「だして」と、それぞれ言い方が違う。
オレも津軽に思い入れは皆無。違う県に感じるよほんと。でも大好きな人間椅子が弘前なんだよね~。
これも面白い⇒
再録&加筆修正「津軽と南部」 坂本サトルオフィシャルブログ
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