原爆の体験記を今読んでいる。
はだしのゲンでも、ABCCに原爆症のお母さんを診てもらうシーンがある。
加害者アメリカの施設に診てもらなんて・・・という葛藤が家族にも噴出するのだが、結局は苦しむ母親を連れて行くのだ。
連れて行った長男(ゲンの兄)はやはり憤る。
アメリカはお袋を、標本として扱ったと。
はだしのゲンはあくまで当時の子供(小学生)目線であるから、共感できない部分も多少、ある。
たとえば天皇は戦争犯罪者だ、とか、原爆を東京にも落とされたくないから保身の為に無条件降伏を急いだ、という目線。
だからそこまで酷くないのではと思っていた。しかしABCCに関しては、はだしのゲンで語られるそのままだった。
14歳といえば、当時はもう大人目線だったと思う。17とか18で特攻隊員になっていた時代だから。
今読んでいる原爆体験記の本でも、その14歳の目線で、ABCCのした事は、
「放射能被害の実験対象の調査、監視、記録だった」
と述べている。
広島はウラン型原爆、長崎はプルトニウム型原爆。種類の異なる核兵器だった。
ファットマン概要:出典ウィキペディア
戦時下で、たった3日の間隔で異なる兵器を使うのは、戦術的にあり得ないという。これが核実験や人体実験の類ではなく、なんだというのか。
今月広島に行くのだが、それまでに関連本を出来るだけ読んでおこうと思っている。
『少女・14歳の原爆体験記』(高文研) 橋爪文
私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。
これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。
そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。
その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。
治療は全く受けませんでした。
そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。
日本政府もそれに協力しました。
こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。
しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。
私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。
あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。
このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。
このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています。
原爆傷害調査委員会(げんばくしょうがいちょうさいいんかい、Atomic Bomb Casualty Commission、ABCC):出典ウィキペディア
一部、ABCCと癒着関係にあった医者もいたようだ。
当時も今も、米の手先のオフェラ豚はいるね。
はだしのゲン5、6
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